無形のアイデアや考え方を表現することはアートの主軸である。この手段は、その目的のためだけに作られたとも言えるかもしれない。それは、夢のようなスタイルで、言葉にはできない複雑で曖昧なアイデアを違和感なく体験させてくれる。一人の若いアーティスト、松崎清乃の写真、映像、カリグラフィの作品のすべてにひとつだけ共通点がある。自身のアイデンティティの洞察だ。
「自分がどのようにして日本人になったのかに興味がありました」と松崎は屈託なく言った。「文化の面ではとても日本的になりました。でも、私たちは今でも毎年(地元の伝統の)儀式や行事を行っています。その意味では、それは日本文化ではないのです」と彼女は続けた。「儀式を通して、シャーマニズムを通して、私たちは独自のアイデンティティを維持しようとしてきました」
松崎のアートの世界への旅は予期せぬ出来事だった。始まりは、彼女がまだ東京で社会学を学ぶ学生だったときだ。そこで出会った学生写真家が、松崎がカリグラフィをやっていると聞いて、二人でプロジェクトに取り組まないかと声をかけてきたのである。テーマは沖縄のシャーマニズムだった。それは当時の彼女の学位論文の主題であっただけでなく、彼女が受け継いできた伝統に深く根ざしたトピックでもあった。松崎の作品の中で特に注目を集めた2点が、彼女の祖父母を主題に据えていることは当然とも言える。
シンプルに『ハジチ』(「タトゥー」の意)と題する1点目の作品は、沖縄伝統のタトゥーのデザインを取り上げた写真のコレクションだ。独特の模様で盛装した松崎の祖母の画像が目を引く。パッと見ただけではタトゥーの意味はわからないかもしれないが、そこには語られるべき物語がある。
「私が用いた模様は、迷信から身を守るための沖縄の古いタトゥーをもとにしています」と松崎は説明した。「(昔から)女性はこの印を手につけていました。アルコールを注ぐとこのタトゥーは怒った顔に見えるのです。その目的は男性を驚かせて追い払うことでした」。後にこのタトゥーの意味は変わっていき、あらゆる女性的な事柄の代名詞になった。少女が大人になると、誇りと栄光の証としてこれを身につけ、良い母、娘、姉妹であることを示すようになった。
しかし、1879年に沖縄が日本に併合されると、よほど大胆でない限りこのタトゥーをつけられなくなった。日本政府がそれを琉球王国に対する愛国の象徴と見なし、すべての人にタトゥーを禁じたからだ。近年では地元でも、そのシンボルの意味を理解できないというのはまだましで、見たこともないという人もいる。
『祖父が神になるまで』と題した2点目の作品は、非常に困難な状況の中で生み出された。祖父が癌にかかり、もう長く生きられないと知って、松崎は別れを告げるために故郷を訪れた。帰り着くと、松崎の父が彼女に特別な頼みごとをした。祖父の最期の時間を映像に撮ってほしいというのだ。
「かわいい私の孫娘、どうもありがとう」。祖父が病床から声に出す。「ありがとう、おじいちゃん」と彼女が答える。祖父はある親戚の手を握りしめている。「息子よ、息子よ」と地元の言葉で祖父は言う。「人生は苦しい」。数カット後で松崎と祖父は手をつないでいる。そのときが迫っている。「もう少し頑張って」と彼女は言う。もう少しだけ待ってくれれば、みんなに会えるからね、と約束する。優しく彼の顔を叩き、他の人たちも今こちらに向かっていると言って安心させる。
この映像の最後の瞬間は葬儀だ。祖父の遺体が儀式を前にととのえられるところが、葬儀場の中のショットとともに映される。映像は、亡くなる直前の祖父の顔のクローズアップで突然終わる。「幸せだった? 今は幸せ?」と松崎が尋ねる。一瞬の間があり、画面は空白になる。
「私たちが古い琉球語を失ったことを表現したいと思いました。家族の中で祖父は琉球語を母語として話した最後の一人でした。祖父はいつも琉球語で話していて、私はよく理解できませんでした。この対比を興味深いと思ったのです」と松崎は説明した。
沖縄文化と日本文化のかすかな違いを具体的に挙げるのは難しい。外部の人間ならなおさらだ。そのためには論評、内省、そして文化的規範への深い理解が求められる。松崎にとって、これらの線は太くはっきりしている。自身のアート全体にそれを見事に織り込もうとしているのだ。
それは『祖父が神になるまで』と『ハジチ』を結びつける共通の糸である。それぞれ、その作品だけのやり方で、彼女の故郷の古代の暮らしをテーマにした対話を開いている。沖縄人のアイデンティティがぼんやりしたものであることは変わらないが、それが作品の中にありのままに引き出されているのも確かだ。私たちには見える。ようやくはっきりと。