津波博美のアートの多くはそれぞれ著しく異なるものだが、その中で共通するテーマがひとつある。彼女が手掛けるプロジェクトはすべて「一度失ったものの作り直し」である。父が住んでいた家の再構築からモンゴルの大草原に友人らの家を再現したことまで、これらのアートはすべて同じような物語を伝えている。それは「家」を象徴しているのだ。

Hiromi Tsuha, Speakers and Pink String, 2008. Courtesy of the artist.

津波は物心ついた頃のこと、例えば両親が別居した理由や彼女がさすらいの遊牧民のようになってしまった理由など、あまりよく覚えていない。彼女は波乱に満ちた幼少期を過ごした。彼女の母親はあまり多くを語らなかったが、津波は父親が「良い人ではなかった」という印象を持っている。彼女が覚えていることは断片的であるが、それもまた興味深いものでもある。

大工をして生計を立てていた父親が仕事を求めて沖縄から大阪へ引っ越したのは津波が3歳の頃だった。父親は家族も一緒に大阪で暮らすことを求め、しばらくして家族は大阪へと移った。だが父親は生活拠点を持っていなかったため、家族は父親の友人宅へと転がり込んだが、やがてそこから出て行くことを求められた。こうして家族のさすらいの旅が始まった。津波は両親と弟と共に大阪の家々を転々とした。その間友人宅に泊まっては自分達の家を見つけてそこに移る、という暮らしが続いた。彼女が5歳の頃に一番下の弟が生まれ、直後に両親は関係が破綻し別居した。

当時の彼女は父親が彼女の人生の一部ではなくなったことを受け入れた。それが物事の道理だった。父親がいないことの真の影響を彼女が実感し理解するようになったのは、大人になって自分自身の人生を持つようになってからだった。英国で学んでいた時に彼女は父親の死の知らせを受けた。その知らせは彼女のキャリアの方向性をひっくり返す、まるで啓示のようだった。

Hiromi Tsuha, 12 Weeks, 2010. Courtesy of the artist.

「失意」と「困惑」という新しい感情と向き合った津波は、ほとんど知らなかった両親について調べることを決意した。その決心は彼女を父親が住んでいた家へと導き、そこで彼女は父親の晩年について深く知ることとなった。「彼は未完成のコンクリートの家の隣にあるシンプルな造りの家に住んでいました」と津波は語る。「彼は家族のための家を作ろうとしていたのですが、完成させることができませんでした。半分建てられた空っぽの家、という自身の失敗を死ぬまで見ながら、家族のための家を完成させられずに暮らしていたのです」

当時津波は修士課程取得を目指している身であったが、彼女はすでに計画書を提出していた元来のプロジェクトの取り止めを決め、次作アートを亡き父親と彼の未完成だった家に捧げることを決心した。その家にあったラジオを形見として彼女は急いでロンドンに戻った。そこで彼女は建材を用いて自身のつい最近の沖縄での体験に基づくオリジナル作品を製作し始めた。「建材業者に行き、いつもセメント5キロを購入し、それを学校に持って行ってました」と彼女は回想する。他の学生が鉛筆や絵の具など一般的な芸術家の道具を使うなか、彼女はその流れに逆らっていた。大学の卒業課題として津波は交互に鳴る音を2つ録音した。「建築業者がセメントを混ぜる音」と「波形アルミシートの屋根を叩く雨音」である。彼女は建築者がいないだけの建築現場を再現した、と解説する。心に響く陳述である。

その後、彼女は沖縄に戻る機会を得て、このアイデアの次の形は2008年の展示作品『Speakers and Pink String』で具現化された。この展示作品が目指すものは明確だ。彼女は父親の家を再現し、彼が完成できなかった部分を完成させたのだ。「アーティストとして家を作ることを心掛けました。建築者は私ではありません」と彼女は率直に述べる。

彼女は空間を演出するために、展示作品を建築用のピンクの紐で装飾した。彼女の父親がよく知った素材だ。だが空間を創り出すだけでは十分でなく、そこを満たす必要があった。そこで今度は声を録音した。「弟たちの声」「母親の声」「地域に住む他の人々の声」を録音し、未完成の部屋でそれを流した。

Hiromi Tsuha, 12 Weeks, 2010. Courtesy of the artist.

津波の幼少期の体験で作品の糧となっているのは父親との別離だけではない。ロンドンに戻った彼女は、彼女自身の言葉を借りるならば「さすらいの邪魔者」になった。この引っ越しは何年も昔の子供の頃に通った道の繰り返しのようだった。スーツケースに生活必需品を詰め込んで6軒の家を転々とする生活だ。この「旅」は3ヶ月間、より鋭く表現するならば12週間続いた。

この経験が新たなアートのアイデアを開花させ、津波はすぐにそのプロジェクトに取り掛かり、それを『12 Weeks』と命名した。「それぞれの家で短期間過ごし、決まった行動を取る、という実験です」と彼女は解説する。「泊めてくれる人と会話します。寝るための服を借ります。寝る部屋の大きさを測り、その見取り図を描きます。日常からハイライトを集めるさすらいの邪魔者のようなものになったのです。」それは何かをはっきりとさせる生活様式であり、それまでにどこか自身の中に見出していた「文化」を反映させる物だった。「モンゴルの遊牧民のことを考えました」と彼女は語る。「大都市で家から家へと移る自分自身。遊牧民たちは大草原の中で家ごと移動しているのです」

それぞれの家で測った長さを使うことで、彼女は枕カバーや布団カバーの切れ端を縫い合わせてそれぞれの寸法を再現することができた。間に合わせのようなこれら各部屋の地図を手にモンゴルへと渡り、彼の地の広大な景色の中に置いた。「双方を並列させたかったので、大きさを測った部屋をモンゴルへと持って行ったのです。」そして最後にこの展示作品を使って絵ハガキを作り、それに相応しい『Bayarlalaa』(バヤルララー、モンゴル語でありがとうの意)と命名した。それぞれのハガキには象徴するものがあり、彼女の生活を支えてくれた人それぞれへの感謝の気持ちを表すために創られたものだ。

「普段であれば眠るためにはある種の安全を感じなければなりません」と彼女は語る。「よって家は安全と感じられるべきです。」津波にとっての安全な場所は常に、頭を横たえることができるならどんな場所でも、なのだ。これについて彼女は「自身が使用する素材は単なる生地ではなく家と呼ぶ場所を象徴する」と表現する。その「家」は、彼女がそう選択する場所ならどこでもいいのだ。

Hiromi Tsuha, Bayarlalaa, 2012. Courtesy of the artist.
Posted 
2021-11-20
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